「30年前の君へ」 

熊本医師会の会報誌に寄稿した文章ですが、少し反響を頂いたので、こちらにも記載させて頂きます。(著作権は僕にあるはずなのでいいですよね?)
塩屋という人間が、どういう想いで医師という仕事を選んだのか知って頂けるかと思いますので、ちょっと(かなり)長いですが、ご興味があれば、どうぞお読みください。
「30年前の君へ」
はじめまして。
平成311月に江越に「しおや内科・内視鏡クリニック」を開設致しました塩屋と申します。
宮崎県の西都市という田舎町の出身です。
私は常々、「人生はご縁とタイミングと決断」を信条として考えておりますが、高校生の頃までは本気でパイロットになりたくて、休日は(飛行機を眺めに)空港に通い、英会話学校に通い、航空大学校志願だった自分が、まさか熊本でクリニックを開業するとは、、、
それこそ、高校時代の自分が30年後の自分の状況を聞いたら、絶対信じないでしょう。
いったい、どういうご縁で、どういうタイミングで、どう決断して、今の状況になったのか、高校時代の自分に納得してもらえるよう説明してみたいと思います。

高校12年と、周囲の同級生が模擬試験の志願校に有名大学や医学部をマークするなか、君は志願校リストに記載さえされていない「航空大学校」を「その他」の欄に書いてたね。
当時、パイロットになるには、裸眼で1.0以上の視力が必要だったけど、君は、田舎の出身だったから(かは分からないが)、ずっと、両眼とも2.0だった。それが、高校3年になって、突如、視力が落ち始めた。1.0を切った時点で、パイロットの道は諦めざるを得なくなった。そしたら、今度は、航空管制官になりたい、と言い出した。だから、今度は模擬試験は、さらに志願校リストに載っていない「航空保安大学校」だ。しかし、高校3年の秋くらいには、管制官になるために必要な裸眼視力0.7も切ってしまった。それでも、どうしても航空関係に進みたかった君は、結果的に、某大学の某工学科を受験したけど、見事に落ちた。
そこから紆余曲折あって、最終的には、航空とは関係ない某大学へ進学した。ただ、君の中には、「何か違う」という気持ちがずっとあった。それで、「自分が本当にやりたい仕事は何なのか?」と、少しでもヒントを得ようと、あらゆるジャンルの本を読んだ。大学の講義も出ずに。
その時に出会ったのが、当時はまだホスピスという言葉も定着していない時代だったけど、ホスピス医の先駆け的な活動をされていた山崎章郎先生が執筆された「病院で死ぬということ」だった。
その本の中に、こう書かれていた。
「もう余命いくばくもない患者様が、最期にワインを飲みたいと言ったら、私は薬ではなく、ワインを処方するだろう」この1節を読んで、
「これだ!自分がやりたいのはこういうことなんだ」と思った。
 
君は人が好きだし、人の世話を焼くのも好きだ。要するにおせっかいだ。
人とかかわる仕事をしたい、それもその人にとって深い部分でかかわれる仕事、その点、命と対峙する医師という仕事ほど、人と深くかかわれる仕事はないんじゃないだろうかと考えた。
そして気づいた。
君は、ほんとは高校の頃から医者になりたかったんだ。
ただ、医者とは無縁の家庭環境で、決して裕福でもなく、成績も中途半端にいいくらいで、医者になろうなんて、現実的には考えられなかった。
 でも、緩和医療のことを知って、心の底から医者になりたいと願った。
当時の日記には、「必ず良い医者になるから、どうか医者にならせてください」と書いてある。いったい、どんな医者が良い医者なのか、誰にお願いしてるのかは知らないが。
いずれにしても、君はようやく本気で目指せる目標が出来た。それで大学1年生の夏休みに宮崎の実家に帰省して両親に頭を下げた。「あと1回だけ挑戦させてほしい」と。
経済的には厳しい家庭だったけど、父は「お前の人生だ。お前の好きなようにしろ。親として、子供の夢を叶えてあげることが親の務めだ」と言って、背中を押してくれた。母は何も言わず、優しいほほえみで背中を押してくれた。
君は、 後期から大学を休学してしまった。つまり、受験に失敗すれば、そこで留年するしかないという形で、自分の退路を絶った。実家に戻ると甘えが出ると言って、大学のある町で一人暮らしをしながら、受験勉強を再開した。ローソンでバイト生活をしながら。
そして、その年度の3月、ようやく医学部生になることができた。 ローソンの店長とバイト仲間が祝福してくれたのが嬉しかったね。
6年後、医師国家試験をパスした君は、熊大の第二内科に入局した。
その後、八代総合病院(現、熊本総合病院)、小国公立病院で内科医として研修をし、最も多い癌種は消化器癌だと感じて、消化器科を専門にしていこうと決めた。
少し話を戻そう。 
医者を目指したきっかけは緩和ケア医だったけど、積極的治療の限界を知らずして、緩和治療は出来ない、というのが君の持論だった。
たしかに、好き好んで緩和治療を希望する人はいない。「他にもう施す手立てがなくなった」と医者に言われて、患者さんは緩和治療を選択せざるを得ない。だから、本当にもう施す手立てがないのか、その見極めが出来るようにと、あえて、緩和治療とは真逆の積極的治療の限界を知るために、急性期・がん拠点病院で勉強することにした。
結果、そこで10年半、消化器科医として、ド素人から独り立ちするところまで育ててもらった。バリバリの急性期病院で、そのactiveな職場は非常に楽しかったし、良い仲間にも恵まれて、そのまま、そこで医師人生を終えるのもいいかなと思った時期もあったね。
でも、やはり、緩和ケアへの思いが強くなってきた。結局、10年半勤めた急性期病院を辞めて、鶴田病院へ異動し、緩和の勉強をさせてもらうことにした。
鶴田病院の緩和ケア病棟で主治医をさせて頂いて、数多くの患者様の最期に立ち会わせて頂いた。その中に、時々、妙に君の心の琴線に触れてくる患者様がいらっしゃって、そんな時は患者さんと一緒に落ち込んでしまうことも多々あって、あまり自分のメンタルコントロールが得意ではない君は、もしかしたら向いてないかもしれない、と感じた。 
それで、いったん緩和からは距離を置いたほうがいいかもしれない、と思い始めた。
それと同じ頃、趣味のマラソンを通じて、開業された先輩方の話を聞く機会を数多く得られた。そんな中で、君自身も開業したい、との思いを抱き始めた。
結果、緩和ケアではなく、「内科・内視鏡クリニック」として開業に至った、というわけだ。
でも、君の気持ちの中には、やはり緩和ケアの思いがあるのは知っている。
クリニックに通院してくれている患者様が年老いて通院が難しくなった時は、訪問診療を検討するし、またその患者様が自宅での最期を希望すれば、在宅緩和治療を検討するんだろう?
長くなったけど、
視力が落ちたこと、挫折という形で他大学へ進学したことで、自分が本当にかかわりたかった仕事に気づき、両親の後押しがあって医者になれて、同僚、先輩、後輩、家族、たくさんの人たちからの支援があった。そして何よりもたくさんの患者さんが君を医者として育ててくれた。そういう、ご縁とタイミングと決断で、今の君がいる。
 
というわけで、パイロットになって空を飛び回ると信じて疑わなかった高校生は、45歳で故郷とお隣の熊本県でクリニックを開設してる。
信じてくれないだろうな~。
あ、ところで君、
30年後、君は高所恐怖症になってるよ。
よかったね、パイロットにならなくて。
職を失うところだったよ。(終)
写真は僕の人生を変えてくれた本です。